※この記事はドラマ「人間標本」エピソード1の内容を含みます。
長野県・蝶が丘。
犬の散歩中に発見される、昆虫標本のように飾られた若い男性の遺体。
この異様な光景から始まる「人間標本」は、最初から視聴者にこう突きつけてくる。
これは、理解してはいけない物語だと。
冒頭から突きつけられる不快感
犯人・榊史郎は自ら警察に出頭し、淡々とこう言い切る。
「人間標本は、私の作品です」
猟奇的な事件でありながら、本作が本当に描こうとしているのは殺害方法ではない。
焦点が当てられているのは、この言葉を平然と口にできる思考そのものの気持ち悪さだ。
榊史郎という人物の歪み
榊史郎は大学教授。
父は画家であり、幼少期に出会った一ノ瀬るみは、普通の人とは違う色の世界が見える特別な存在だった。
しかし史郎自身は、
父のような絵の才能を持たず、
るみのように特別な世界を見ることもできない。
彼はこの二人に対して、長年、強い嫉妬を抱えていた。
それでも史郎は、その感情を認めることができなかった。
代わりに選んだのが、「二人にはできないことをする自分」という立場だった。
「人間標本」という自己正当化
史郎はこう考える。
- 父は人間の標本を作れなかった
- だから絵を描いていた
- 自分はそれを成し遂げた
しかし、これは完全なすり替えだ。
画家が絵を描くのは、妥協ではない。
絵画とは、人を殺さずに、その一瞬の美しさや魂を切り取る完成された表現だ。
一方、人間標本は、人を殺して止める行為。
この二つを同列に並べた瞬間、それは芸術ではなくただの犯罪になる。
息子すら「素材」になる恐怖
史郎が標本にした6人の少年の中には、実の息子も含まれている。
ついこの間まで、親子で仲良く暮らしていた。
一緒に食事をし、将来を語り合っていた。
それでも史郎の中では、息子は「選ばれた存在」であり、
「蝶の王国へ旅立つ供物」だった。
ここには葛藤も後悔もない。
あるのは、完成したという満足だけ。
史郎の気持ちは、理解できない
正直に言えば、史郎の気持ちはまったく理解できない。
父が人間の標本を作れなかったから絵を描いていた、という理屈も成立しない。
るみの才能にしても、彼女は一度も史郎を否定していない。
それでも史郎は、才能を持つ他者に人生の責任を押しつけ、
犯罪を「芸術」と呼んだ。
これは同情できる物語ではない。
精神異常者と言われても、否定できない行為だと思う。
エピソード1のラストが残すもの
取調室で、史郎は満足げに微笑む。
「選ばれしものだけが行ける蝶の王国。
私はそこへ行くお手伝いをしただけです」
彼は最後まで、自分を疑わない。
このドラマの恐ろしさは、犯人が壊れていないことにある。
論理があり、言葉があり、美意識すらある。
だからこそ、視聴者は拒絶するしかない。
「人間標本」エピソード1は、犯人を理解する物語ではなく、
理解できなさそのものを突きつける物語だった。
この気持ち悪さが消えない限り、
このドラマは、きっと正しくこちらに届いている。
