※この記事はドラマ『人間標本』第3話の内容を含みます。
第3話を見終えて残ったのは、はっきりしない疑問でした。
榊史朗はすべての罪を自分が犯したと語りますが、後半で描かれるのは、至の視点から構想された「人間標本」という物語です。
この標本を本当に作ったのは誰なのか。
蝶の擬態のように重なり合う父と子の語りから、第3話の違和感を考察していきます。
蝶の擬態から始まる告白――至は「オオベニモンアゲハ」だった
第3話の冒頭は、ワタナベアゲハとオオベニモンアゲハの説明から始まる。毒を持つ蝶と、それに擬態する蝶。見た目だけでは区別がつかないという話は、この物語そのものを象徴しているようだった。
鳴海が手記をもとに「至くんのご遺体は、オオベニモンアゲハとして標本にされたのですね」と尋ねると、榊は静かに肯定する。さらにクロアゲハの存在にも触れ、なぜ至だけが二種類なのかと問われても、「どうしてもそう見えてしまった」としか答えない。
この時点で、すでに“見る者の歪み”が語られている。
台湾での記憶――父と子の幸福な時間
場面は回想へと移り、榊と至は台湾で蝶を追っている。虫取り網を手にワタナベアゲハを捕まえ、二人は素直に喜びを分かち合う。
パイナップルジュースだと思って飲んだものが、実はカクテルだったこと。警察を気にしながらも、結局ご機嫌で飲み続けたこと。台湾での時間は、確かに幸せな父子の思い出として描かれていた。
「二十歳になったら、また一緒にあのお酒を飲みたい」
未来を信じた至の言葉を聞いても、榊の標本作成の決意は揺らがなかった。そこには、すでに人間の感情を失いつつある父の姿があった。
そう考えると、前回、榊がパイナップルを口にして吐いた場面も、
単なる体調不良ではなく、台湾での記憶が無意識に呼び起こされた結果だったのかもしれない。
なぜ至だけ殺害時期が遅れたのか
絵画合宿が中止されたのは4月28日。榊は5人の少年たちをそれぞれ自宅まで送り届け、その後、約10日かけて順に殺害し標本を作った。
しかし至の死亡推定日時は5月10日。明らかな時間差がある。鳴海の問いかけをきっかけに、榊の回想が始まる。
最初は達成感に満たされていたが、次第に欲望が膨らんでいった。もっと美しい蝶が欲しい。もっと完璧な標本を作りたい。世界に2万種の蝶がいるなら、2万人を標本にすれば満たされるのか――。
その狂気の中で、榊の目には至の背中に羽が生え始めて見えた。至は、最後にして最高の標本となっていく。
「親として最後にできること」――歪んだ愛の論理
榊は鳴海に語る。至は繊細な子であり、自分の正体を知ったときに事実を受け止められるのか。世間からの誹謗中傷に耐えられるのか。
そんな人生を歩ませるくらいなら、「一番美しい姿を標本にして残してあげること」が、親として最後にできることだと。
鳴海はそれを明確に否定する。「あなたは人間だし、あなたが殺害した少年たちも人間です」。
それでも榊は「これが全てです。どうぞ私を死刑にしてください」と頭を下げる。そこには、すべてを終えた者の表情しか残っていなかった。
後半は“至の物語”――自由研究『人間標本』
物語はここで大きく反転する。展示された作品名は「人間標本 榊至」。
そして画面は、至がパソコンに向かって書いている自由研究「人間標本」へと移る。第一章「まえがき」から始まり、至の内面が語られていく。
絵の才能があると言われながらも、「写真でいいじゃないか」と感じていた至。自分の絵には哲学も物語もないと悩んでいた。
祖父の「人間の標本を作りたい」という過去の発言、るみの絵画合宿への参加、後継者になれる可能性を知った瞬間に芽生えた競争心。
やがて至は、少年たちの背中に蝶の羽が生えているのを見る。それは“第3の目”を与えられた感覚であり、神からのギフトだと感じた瞬間だった。
「彼らの姿は、まさに人間標本でした。これ以上の芸術作品がどこにあるというのでしょうか」
この標本を作ったのは、誰なのか
第3話を見終えて、強烈な違和感が残る。前半では榊史朗がすべての殺害と標本制作を行ったと語られる。しかし後半では、人間標本を芸術として構想し、言語化しているのは至だった。
史朗は本当に殺人を犯したのか。それとも父が罪を被った物語なのか。あるいは真実そのものが擬態しているのか。
毒を持つ蝶と、毒を装う蝶。見分けがつかないからこそ、生き延びる。
第3話は、「誰が加害者で、誰が作者なのか」という問いを決定的に曖昧にした回だった。
第2話の感想はこちらから。

